2007年6月号 編集 砂川 香代子  


○日 「笑い事ではない」

「食」は、最後の砦だ。口から食べ物が運ばれれば体は健やかだ。
浮世の欲をすべて剥ぎ取った時、残る欲は「食」のみといっても過言ではない。「食うために生きるな 生きるために食え」という諺があるがそのとおりだ。

       *

夕飯時、彼女は足を引きずりながらゆっくりテーブルに着き満面の笑みで「おいしそうやねぇー」と、つぶやいた。煮物、酢もの、お汁がきれいに並んでいる。どうやら空腹だったようだ。このところ、食べるスピードが速くなった。以前は最後までテーブルにいた。運動量が以前に比べ増えたせいかもしれない。御他聞にもれず今夕も速い。すると、椿事がおこった。黒一点のメイトに向かって、な、なんと、「それを下さい」と、はっきり言ったのだ。指は、煮物を指している。一同驚く。他人に向かって話しかけることさえ皆無なのに、「オカズに目標を決め」良し悪しのわかるメイトに向かって、オカズを乞うたのだ。臨席にオカズを横取りしても気づかないメイトがいるにもかかわらずだ。成り行きを見る。彼は驚きつつも間髪いれず、「だぁめぇ〜あんた自分の、もう食べたやろ〜?これは、わたしの」 諭すように言う。ところがだ、敵もさる者引っ掻く者で、動かざるごと山の如しである彼女が、あっという間に彼の所へ走り寄ったのだ。「あらら〜」だ。こんなに早く歩けたのだ。何をかいわんや、いきなり彼のオカズをむんずと掴み取ろうとしたのです。さすがに彼も驚き、顔を真っ赤にして怒鳴りはじめました。当然です。職員が割って入り、事無くを得たが、まずいことは続くもので、彼女の食器を片付けようとした職員を「あらら〜」の彼女が見とがめ、勘違いが八つ当たりに発展し、「(私の夕飯を)取った〜!」と、職員に暴言を吐きはじめました。顔は真っ赤です。目も吊り上っています。みるみる鬼の面相になりました。

言葉だけでは足りないのか、立てかけてあった杖を握って、小鼻を膨らませ、ブンブン振り回し(ているつもり、実際は少し揺れただけ)はじめました。老いの一徹、正義を貫くぞ!如く真剣そのものです。静かに食事を摂っていたメイトの面々は、何事かと一同彼女を見つめます。取り敢えず残っていたオカズをかきあつめ彼女の前に並べます。老いの一徹、正義を貫いた彼女は、すごすごと鎮座し、恥ずかしげに、それでいて当然と言いたげに食べはじめます。職員もホッと胸を撫で下ろします。「めでたし、めでたし」ところが、食べ終わった彼女は、平然と「わたしのご飯がない!」と、言い放ちました。ガーン!小事をかろんずるなかれ 大事に至る。です。もはやこれまでとお菓子を出します。「これよ〜」にっこり微笑み、相好をくずします。鬼の中に仏も住み、仏の中に鬼も住みます。右手に菓子をつかむと、もうひとつくれと言います。差し出すと、左手でつかみ、右手の菓子を口におしこみます。甘いものが、空腹を満たしたのでしょう。「めでたし、めでたし」と、なりました。老いて再び稚児になった彼女。誰が悪いのでもありません。その夜は、ぐっすりと、眠りにつきました。寝顔は、健やかで可愛らしい。顔の横にそろえた手が頼りなげで悲しい。可哀相なことをしてしまいました。無性に後悔の念におそわれ胸が痛みます。
職員一同、深く、反省するのでした。

○日 「名 言」

緑が目にしみて痛い。春、美しい桜を誇らしげに咲いて見せてくれた木々。まるで、休養をとっているように今は、殊勝に立っている。葉っぱだけがさらさら揺れる。車椅子に彼女をちんまり乗せてゆっくり歩く。大きな麦藁帽がよく似合っている。日焼けを極端に気にするので、お散歩には欠かせないアイテムだ。90を過ぎても美容を気にするのってどんなだろう?麦藁帽をかぶせる時、毎回思う。私ならきっと、ないな。なんて考える。難聴なので、意思の疎通が難しく一方的によく喋る。お喋りが生きている証のように、高い透る声でしゃべる。言葉遣いがとてもきれいだ。一方的なのに、時事の的を射て驚くことも多々ある。先日、テレビから「のど自慢番組」が流れていた。彼女の耳には届いてないだろうと思っていたのに、突然、喋りだした。「へたくそで勇気のある人が出場するものやねぇ。上手い人は、人前では披露しないものねぇ。奥ゆかしい人ほど上手ものよ」う〜ん。そうでもないと思うけどなぁ〜。一理あるかもね。ある日、「痛い、痛い」と、太ももをさすります。大腿部が悪いのです。イタイイタイと、さすりながら、「わたしは、日本全国の人の痛みをすべて背負ってしまったのねぇ」真面目な顔で言い放ちました。一同爆笑です。勝手なものでソノ声は届きません。そして、突然、(いつでも、突然ですが)宣言することもあります。
「私は、満96歳。2本の足で生きてきました!」
「私は、どちらかというと明るい女よ!」
「常に明るく生きないといけない。明るいだけでなく『トントン』(指で、頭を叩く音)まぁ〜ここも(頭)いいけど」
「ワハッツハッツ!」

なんの宣言なのか、堂々と、一人ボケつっこみをして、満足げにひとり大爆笑をするのです。周りは、あっけにとられます。車椅子で公園を歩きます。あなたの体を皐月の空気が包んでは逃げていきます。仰ぎ見ると、飛行機雲が、東から西へと一本の線を引いていきます。空は大きなキャンバスだね。「飛行機雲よ!」聞き耳にどなります。「人間は、くよくよしたらいけん。まぁー後悔も必要だけど」西の空を眺めながら、今日の迷言が飛び出しました。大正、昭和、平成を2本の足で生きてきたあなた。知恵と、明るさで、様々な苦難を乗り越えたんだろうね。いっぱい、いっぱい歩いてやっと此処へたどり着いたんだね。大変だったね。お疲れ様でした。子供さん達は驚くほど親孝行だし、立派だよ。尊敬しちゃうよ。あなたの人生の集大成「迷言」を生で聞ける私たちは、とても、とても、しあわせ者です。極楽浄土の空に向かって、吸い込まれるように描いていく一本の線。美しいかな あなたの人生。
風にくしけずり雨に沐す(荘子)

○日 「かたりべ」

耳を澄まして下さい。面白い会話が聞けますよ。

*漢字カルタをしていました。
職:「村の字をさがしてくださーい」
A:「♪むら〜のちんじゅのかみさまはぁ〜」
 「オットォ〜」口ずさみながら、テンポよく次々と取っていきます。
 「歌えばいいねぇ〜」得意そうにテンポよくカードにピシャリと、手を当てます。
職:「寺と言う字を探してくださーい」
A:「♪てらぁのちんじゅのかみさまはぁ〜」
B:「それは、村でしょ。寺じゃないでしょ」ぴしゃりと叩きます。江戸の敵を大阪で討ったようにみえますけど。
A:「・・・・」メガネの向こうでムッとしています。まるで、「ふん、いいじゃないの」と、言いたげです。
カルタをするのだって、真剣そのものです。
*薬の時間
A:「ああ〜おいしかった。この薬はコクがあるね〜。ほんとよコクがある」
 薬にコク?ってなに?味醂でも入ってるの?
*おやつの時間
A:「ああ〜おいしい。極楽にいったようにおいしい。ほんとよ。おいしい」
職「極楽にいったの?」
A:「一回行って来たよ」「もう一度いきたいね」 マジだからこわいよ。

*よもやま話

A:「わたしんところは呉服屋やったにィ。よお栄えとったよー」
B:「ほぉ〜そーねー」
C:「へ〜え〜。お忙しかったでしょーねー」
A:「そりゃ忙しかったよォ〜そォいやぁ〜奥さんも来てくれたんじゃなかったぁかねぇ〜?
  見た気がするんだ    けど・・・見間違いかね?」
 突然、何を思ったのかCに向かって聞きただす。
C:「そうそう、買いに伺いましたよ。よく行きましたよ」
A:「じゃろォ〜?見覚えがあるもの」突然、旧知の仲となる。
B:「ほォ〜そーねー」 ひとり、冷静。
A:「東区の通りよ。お客さんが裁ききれんほど来よったにィ」
C:「そうでしたね〜。お忙しかったでしょう」
A:「寝らんと、よどォーし縫ったよォ〜」
C:「昔は、みんなそうでしたもの。よォく働きましたね」
B:「そうそう、よく働いたね〜」
A:「二人ともよく店にきてくれたものね」
B:「うん、よお行ったなぁ〜」
C:「そうそう、二人で、よくうかがいましたね〜」

かくて、三人は大昔からのお友達となり和気あいあいで店じまいするのでした。
今日は友達、明日は他人、又、次の日は、親戚に化けます。君子豹変す。その時その時、まあるく収まれば、それもいいじゃないか。人生の最終章です。
終わりよければすべて良しと、しましょう。

○日 「冥利につきる日」

我が家はゆっくり時が流れる。水草のように揺らぐ。安住の棲家を得た人魚たちは、そのなかで思い思いの時間の流れをゆらゆら泳ぐ。上手く泳げるもの泳げないもの。私たちは寄り添って伴泳する。

彼女が住人となって二年を数えた。未だに歯ブラシや入浴を拒否する。いわゆる介護拒否。嫌がることは無理強いせず様子を窺いながらすすめる。彼女の一日は寝たり起きたりだ。気が向けば共用に座る。まるで他人の姿が、其処ここにあることが喜びのように周りを見つめる。ひとりぽっちは、寂しい。人は人の中にあってこそ尋常に息ができる。大きく息を吸って安心してぼちぼちと自室に戻る。

ある日のこと。

職員は昼食後の口腔ケアに忙しい。車椅子のメイトを順に洗面へと誘う。ぱたぱたと忙しく誘導していると、何を思ったのか、彼女から声がかかる。(めったにこのようなことはない)
「あんたァ〜どこへ、いくのォ〜」
「歯磨きに行ってくるよー」

見つめると、水が温むような瞳だ。こんな瞳をしているときは開襟している時だ。何かいいことがおこりそうな予感がする。「オシ」と心うちで掛け声かけて言ってみる。
「歯磨きに行く?」意味がわかってか、わからずか、「いくゥ〜」語尾を伸ばして甘えたように答えた。
さあ、大変!気持ちが変わらぬ内にやり遂げなくてはならない。「歯磨きに行くそうでーすー」
遠くの職員が振り返る。彼女の気ままな一言が上へ下への大騒ぎになる。むろん、彼女の知ったことではないけど。私の押している車椅子を飛んできた職員と代わってもらう。久々の歯ブラシだ。知らず知らず、リキがはいる。「上の歯」「下の歯」かけ声に素直に口を開けてくれる。歯ブラシでゴシゴシと入れ歯を洗う。水道の水が義歯の上で踊るように跳ねる。汚れていた義歯がみるみる白くなる。彼女は車椅子におさまったまま穏やかな表情で、じっと私の手元を見つめている。これでもかというくらい義歯を磨く。何故か、涙がこぼれてくる。後から後から嬉しさがさざ波のようにやってくる。鼻水と一緒に袖口でぬぐう。
「上の歯」「下の歯」もとどおりおさまる。
「よかったねー」
「よかったねー」
にっこり笑う。瞳と瞳で会話ができた気持ちになる。
会心の笑みだ。微笑んだ彼女の口元が、白くまぶしく美しい。